歴史映画が好きだ。
いや、好きというのともちょっと違うか。たまに摂取した方がいい栄養だと思っている。歴史映画を観て、明るい気持ちになることはまずない。どちらかというと、ずしっと重たい物を飲み込んだような気持ちになり、少しピリリとした心持ちになる。
そして、知らなければならない事の一つに触れたような気持ちになる。あぁ、私たちはこうして生きてきたんだな、というような感覚かもしれない。
最近ではNHKで『映像の世紀バタフライエフェクト』が定期的に放映されているので、よく観ている。先日は、芥川龍之介が軽快に木登りをする姿から三島由紀夫の割腹までを扱っている回を観た。やはり、ずしりとする。テーマ曲・加古隆さんの「パリは燃えているか」がまた染みる。人類が歩み続けながら沢山の業を重ねてきたリズム、のような物を感じさせる。
さて、映画の話に戻るが、先日、「マッツ・ミケルセン生誕60周年祭」で上映されていた
『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』
原題:En kongelig affare
監督:ニコライ・アーセル
製作:2012年/デンマーク、スウェーデン、チェコ
上映時間:137分
を観てきた。

デンマーク王クリスチャン7世、王妃カロリーネ・マティルデ、侍医ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセの三角関係を描いた、厳粛な気持ちにさせられる映画だった。
貴族・教会による政治腐敗、宮廷のスキャンダルで追い落とされる実力者、革命家の理想と現実、扇動されやすい民衆などなどが力強く描かれ、時代は違えど相変わらず同じような事を繰り返している人間の現在を思い、体感温度がヒュッと下がる。
史実ベースの映画と知らずにマッツ・ミケルセン目当てで観に行ったのだが、エンドロール直前で「あ、これ、実際あったやつだ」と気付く。
観終わって早速検索だ。まずは映画の情報。あ、私の大好きなラース・フォン・トリアーが製作に名を連ねている。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ドッグヴィル』など、観るものを無事に帰さない映画の作り手だ。「どおりで」と納得する。
映画はストルーエンセ(マッツ・ミケルセン)を主人公に描かれる。
感情的で奔放な王・クリスチャンの侍医として仕えることになったストルーエンセが、王に冷遇されている王妃カロリーネと心を通わせ不倫関係になり、かつ王とも心を通わせ無二の友となる。
ストルーエンセは自身の革命思想をカロリーネと共に洗練させ、王を通じて数々の革新的な政策を実現、国の改革を図るが、それを良く思わない権力者たちから不倫スキャンダルをすっぱ抜かれ地位を追われ、処刑されるというストーリー。
はじめは王を立てていたストルーエンセが、王の署名なしで政策を実行出来るような決まりを作った辺りから、大分心配な空気が流れ始める。
宮廷のお飾りにされている事に苦悩していた王を支えたストルーエンセが、まさしく「お飾り」として王を扱う事の皮肉さ、物悲しさ。心を通わせた者たちが立場や権力の違いから関係の破綻に到る様が痛々しく描かれていた。
革命に性急になるあまり国民感情を無視して突っ走るストルーエンセの姿も、辛いものがある。
とはいえ、現代から見れば、ストルーエンセの政策はどれも「あって当たり前」の物で、理想の実現を急ぐ心もとても分かる。が、映画の舞台の時代ではどれも特権的階級を脅かす物で、理想を求める人間と時代との闘いがシビアに描かれていて好感触だった。
ストルーエンセは処刑されている、という史実を知らずに観に行ったので、反対派の底意地の悪さ・やり口の汚さにいちいち感情を煽られながら、最後までストルーエンセの運命の行方をハラハラと見守ることが出来た。
「私も民衆の一人だ」そう叫びながらも、処刑場に詰めかけた民衆から共感も擁護も得られず処刑台への階段を上るストルーエンセ。首を落とされる寸前に見た、詰めかけた民衆の多さ。その無念さに鼻水・涙を垂らしながら刑を執行されるシーンのマッツ・ミケルセンは、さすが北欧の至宝だった。
こんな陰惨な処刑執行の後、エンドクレジット直前で字幕が挿入される。その後のデンマークの歴史を示唆する物で、そこにわずかな救いが漂う。
不倫とはいえ真実の愛として描かれた王妃との関係、王との深い交流、革命家のジレンマなど、何が正解とも言い切れず、時代に翻弄された人々の、力強さ・物悲しさが漂う映画だった。
と、ここでストルーエンセのWikipedia記事も見てみる。
すると、
精神的に弱かった王から王権を強奪、王妃をもたらしこみ、しばしば傲慢な態度で権力をかさに着て振る舞った。改革は妥当なものだったが、タイミングと方法を誤っていた。
などなど、結構色々否定的な言葉が書いてある。『ロイヤル・アフェア』では主人公として、共感を集める描かれ方が強く印象に残ったが、一般的歴史エピソード、となるとこうも見方が変わるものかと驚く。
改めて、その人の事はその人にしか分からないものだな、と思いながら、視点により無数に生まれる異なる真実というものに愕然としたのだった。
このストルーエンセ、宝塚でも『海辺のストルーエンセ』というタイトルで劇化されているらしく、そちらはどんな描かれ方をしているのかも気になるところだ。
史実ベースの映画と知らずにマッツ・ミケルセン目当てで観に行ったのだが、エンドロール直前で「あ、これ、実際あったやつだ」と気付く。
観終わって早速検索だ。まずは映画の情報。あ、私の大好きなラース・フォン・トリアーが製作に名を連ねている。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ドッグヴィル』など、観るものを無事に帰さない映画の作り手だ。「どおりで」と納得する。
映画はストルーエンセ(マッツ・ミケルセン)を主人公に描かれる。
感情的で奔放な王・クリスチャンの侍医として仕えることになったストルーエンセが、王に冷遇されている王妃カロリーネと心を通わせ不倫関係になり、かつ王とも心を通わせ無二の友となる。
ストルーエンセは自身の革命思想をカロリーネと共に洗練させ、王を通じて数々の革新的な政策を実現、国の改革を図るが、それを良く思わない権力者たちから不倫スキャンダルをすっぱ抜かれ地位を追われ、処刑されるというストーリー。
はじめは王を立てていたストルーエンセが、王の署名なしで政策を実行出来るような決まりを作った辺りから、大分心配な空気が流れ始める。
宮廷のお飾りにされている事に苦悩していた王を支えたストルーエンセが、まさしく「お飾り」として王を扱う事の皮肉さ、物悲しさ。心を通わせた者たちが立場や権力の違いから関係の破綻に到る様が痛々しく描かれていた。
革命に性急になるあまり国民感情を無視して突っ走るストルーエンセの姿も、辛いものがある。
とはいえ、現代から見れば、ストルーエンセの政策はどれも「あって当たり前」の物で、理想の実現を急ぐ心もとても分かる。が、映画の舞台の時代ではどれも特権的階級を脅かす物で、理想を求める人間と時代との闘いがシビアに描かれていて好感触だった。
ストルーエンセは処刑されている、という史実を知らずに観に行ったので、反対派の底意地の悪さ・やり口の汚さにいちいち感情を煽られながら、最後までストルーエンセの運命の行方をハラハラと見守ることが出来た。
「私も民衆の一人だ」そう叫びながらも、処刑場に詰めかけた民衆から共感も擁護も得られず処刑台への階段を上るストルーエンセ。首を落とされる寸前に見た、詰めかけた民衆の多さ。その無念さに鼻水・涙を垂らしながら刑を執行されるシーンのマッツ・ミケルセンは、さすが北欧の至宝だった。
こんな陰惨な処刑執行の後、エンドクレジット直前で字幕が挿入される。その後のデンマークの歴史を示唆する物で、そこにわずかな救いが漂う。
不倫とはいえ真実の愛として描かれた王妃との関係、王との深い交流、革命家のジレンマなど、何が正解とも言い切れず、時代に翻弄された人々の、力強さ・物悲しさが漂う映画だった。
と、ここでストルーエンセのWikipedia記事も見てみる。
すると、
精神的に弱かった王から王権を強奪、王妃をもたらしこみ、しばしば傲慢な態度で権力をかさに着て振る舞った。改革は妥当なものだったが、タイミングと方法を誤っていた。
などなど、結構色々否定的な言葉が書いてある。『ロイヤル・アフェア』では主人公として、共感を集める描かれ方が強く印象に残ったが、一般的歴史エピソード、となるとこうも見方が変わるものかと驚く。
改めて、その人の事はその人にしか分からないものだな、と思いながら、視点により無数に生まれる異なる真実というものに愕然としたのだった。
このストルーエンセ、宝塚でも『海辺のストルーエンセ』というタイトルで劇化されているらしく、そちらはどんな描かれ方をしているのかも気になるところだ。
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