AURYN
『ヘニーデ』
脚本・演出:窪寺奈々瀬
日程:2019年9月12〜16日
料金:予約2800円/当日3300円
会場:スタジオあくとれ

_20190917_003140


マジックバーに集まるマジック好きの交流会を舞台に、
途中からサイコキネシス、テレパス、という能力者が現れ、
「人と違う」ことをどう受け入れていくか、みたいな事が描かれる。

開演直後からマジックが披露され、随所に盛り込まれるマジック、
テーブルでのマジックをちゃんと観る為のモニター設置などもあり、
『グランド・イリュージョン』感がある。
マジックモリモリの舞台って観た事ないので、新鮮だった。
十分練習しているだろうとはいえ、
成功するかしないかはある種の生モノ的緊張感があって楽しい。

前半の軽快な感じから、
中盤〜後半に差し掛かると、
「マジック」として観ていたものが実はサイコキネシス、本物だという事になり、
人々の間に摩擦が生じる。
自分と違う「何か」とどう接していくのか。
マンガとか映画とかで盛んに「能力者」が描かれる現代で、
「サイコキネシス、テレパス」といった能力に劇中のように
「気持ち悪い」といった反応が起こるだろうか、むしろかっこいいのでは、
と思ったりもするけど、
様々な「違い」に不寛容になっている今のご時世、
この「違い」に対する反応は自然なものなのかもしれない。
違いを肯定していく物語としては清々しい。



観ていて、二つの「型」について考えた。



【脚本の「型」について】

観ていて、演劇の脚本の「型」について考えたので、書いておく。

ハリウッド映画、特にアクション映画には、
典型的な「型」があると思っている。
男女の主役がいればたいてい〆はキスシーン、とか、
ピンチには必ず助っ人がやってくる、とか、
ブルース・ウィリスはどんなに被弾しても死なない、とか、色々あるけど、
私、そういうのが結構好きだ。
観ていて「よっ!待ってました!」と声をかけたい気分になる、
一種の伝統芸能的感覚になる。

演劇にもいわゆる「お決まりの展開」みたいなのはあって、
その一つが、
「中盤から後半にかけて、何か問題が発生し、
それまでそれほど饒舌でもなかった人々が、
その問題に対して突如心情を熱く主張し始める。
ちゃんと皆順番に喋って、皆大人しく聴いてる。
皆喋り終わると少しづつ人が舞台から出て行って、
やがて二人とかのシーンになり、いい感じになって終わる。」
というやつだ。
ハリウッドの伝統芸能には「待ってました!」となる私だけど、
なぜか演劇のこれには「見飽きた」という感想が出てしまう。
私も演劇やってるからかもしれない。
でも何か、使い古された、しかも洗練される事もなかった、「死に型」な気がしてしまう。
感覚とか好みの問題なのかもしれない。
というか、芸術の良い悪いなんてたいてい「好み」だと思うので、
あくまでも私の好みの話だけど、
この型は、どうも古臭い気がする。
私が大学時代、10何年前にもこういうの死ぬほど観た気がする。
皆が順番に自分の意見を披露して激突、解決に向かう、というのは、
なんか一定のカタルシスがある気がするし、
役者一人一人にちゃんと見せ場が出来るし、
ひょっとしたら(作家的に)良い方法なのかもしれないけど、
私はあんまり好きくないんである。

なんでだろう、と考えると

・良いシーンだぞ!とすごく強調されてる感がある。
たいてい、この部分に、作家のいわゆる「伝えたいこと」が集約される。
良い音なんかもかかり始めると、相乗効果で「良いシーン感」が出る。
分かりやすいけれども、なんか、ダサい気がする。
言葉ではなく、関係性でそれを感じさせてほしい。

・成立してないように見える
たいていこういうシーンは、一人が主張している時、
他の人物は自分のターンまでの「順番待ち」をしている。
熱い主張が行われているので、たいていの人物は
真剣な表情で、微動だにせずに聴いている。
結果、棒立ちまたは座って深刻なオーラを放つ人ばかり、
という事になり、熱いのに停滞した雰囲気が生まれる。
しかも主張はたいてい一人一人長いので、余計にだ。
しかしこういう場合、役者の視点からすると、
深刻な顔で真面目に聴く、くらいしか手がない。
そんな経験が私にもあり、「なんだろうこの時間」と、
自己と格闘したトラウマが蘇るのかもしれない。
観客目線でなく、役者目線で観てしまうから、辛いのかもしれない。
でもなんか、順番待ち、不自然な気がする。
台詞の長さで言えば私の大好きなシェイクスピアもそうだが、
あれは長い台詞は、思考の流れを辿っている場合、
または過度な装飾が施されている場合が多いので、
変化があって楽しい。
逆にターン制台詞になると、その場で口に出されるのは、
「一つの明確な主張」である場合が多いように思えて、
人物の心情変化というより、
作者の言いたい事の演説を聞いている気分になる。
あからさまに人物にテーマを語らせるのは、
脚本としてどうなのか。という思いになる。

主にこの二点から、こういうシーンが来ると客席で
「しまった!突入した!」
という気持ちになる。
イリュージョン亭素見くんの言を借りれば、
戦闘機が撃墜される前に椅子を射出して脱出する機能、あれが客席についてればいいのに、
という気分になる。

今回の『ヘニーデ』は、まだ観れる感じだったけど、
確実にこの「ゾーン」に突入した後半部分で、やや冗長に感じた。
こういうの、演出方法でどうにかなるものなんだろうか。



【「良い声」の型】
オカルトをネタにする、空気の読めないyoutuberという役で、
Vi-voの高野憲太朗さんが出演されていた。
観てる時から、「あの人声良いな」と思って観て、
観終わってググってみるとやはり、声優・ナレーターで活躍されてる方だった。
今回の役柄は、ほんとに空気を読まない、自分のペースで強引に物事をすすめる人物、
というもので、良い声が良い武器になってた。

で、最近、「芝居が噛み合わないように見える原因」について少し考えてたので、
少し書いておく。

声優とかナレーターとかをやってる役者が舞台で「浮く」というのは、
演劇界隈でよく聞く話のように思う。
(今回の高野さんが浮いてた、という事じゃなくて。むしろ浮いていい役柄で、ピタリと浮いてて良かった)
私もナレーターやってる身なので、
この「いい声の型」というのには重々注意してるんだけども、
いわゆる「いい声」だと、現場によっては浮きやすい。

いい声に限った話でなく、演劇ジャンルが違いすぎる現場の俳優同士が、
お互い歩み寄ることなく自分のペースで芝居をやると発生する、異種格闘技戦、
という方が良いだろうか。

ガチガチに作りこむ芝居をする人と、自然な会話を第一とする人とが舞台上で、
各々の流儀で会話をすると、なんか、言語が違いすぎるように見える。
声の仕事というのも、演技の一つの流派なので、
違う流派の人と、サイズ感を考えずに自分の芝居をすると、異種格闘技になる。
そして、「良い声」は目立ちやすい。
良い声なんて本来良いことでしかないのに、
悪目立ちして、結果、あの人の芝居だけ浮いてたね、
みたいな事になったりする悲劇が発生する。
いわゆる良い声は、ブレが少なくて、その場で生まれた感情、というよりも、
「プラン通りに綺麗に出してる声」「他者から影響を受けない声」
と誤解されやすいのかもしれない。
だから「良い声」は、良くない「型」として攻撃されやすいのかもしれないな、
なんて考えた。
一人だけ良い声だと浮く、というのは、
自然な芝居に一人だけアングラ芝居だと浮く、というのと同様、
サイズ感の問題でしかないと思う。

ただ、会話、という点においては、ある程度のサイズ感の統一がされている事って、
結構、「台詞」を「会話」に聞こえさせるための重要な要素だと思うのだ。

50で発する人が200で発する人と会話をする場合、
50で発してもリアクションが200だったり、
200で発してもリアクションが50だったりすると、
会話が成立しているようには見えにくい。
もちろん日常でも声の大きい小さいは人によってあるけれど、
そういう場合は
「この人声大きいな、小さいな」といった心情が生まれて、
会話になんらかの影響が出やすいはず。
でも役者同士になると、なんか、相手の流儀の尊重、とか、
自分に合わせて、とか言いにくい、とかの色んな気遣いが発生して、
調整しにくい事がある。

演技指導は演出家の仕事ではない、なんていう事も言われますが、
こういうのは誰がどう調整すべき問題なんでしょうね。
会話、難しく、そして面白い。もっと研究したいですね。

(繰り返し書くけど、今回の高野さんが浮いてた、という事ではなくて、である。)