DULL-COLORED POP vol.20
福島三部作・第三部『2011年:語られたがる言葉たち』
作・演出:谷賢一
日程:2019年8月8〜28日
8月8〜11日→第2部上演
8月14〜18日→第3部上演
8月23〜28日 →第1部〜第3部連続上演
料金:一般4200円/通し上演10000円
会場:東京芸術劇場シアターイースト
詳しい情報は劇団サイトへ
23日からいよいよ通し上演が始まる、
DULL-COLORED POPの福島三部作。
三部を観てきた感想など。第二部の感想はこちら。
というか、単独だと4200円、三本セットだと10000円。
お得です。
まだ間に合う?オススメですよ。
Twitterには
台詞のドキュメンタリー性の強さ。
語られたがる言葉たちをいかに語り、舞台にするか、
という作り手の誠実な苦悩、いびつな直球。
痛みと悼み。
舞台観てこんなにほろほろ涙がこぼれたのは初めて。
パンフレット豪華。買うべし。
と書きました。
まず、パンフレットが本当に豪華。写真もさる事ながら、
活字の、読み物としての充実さが本当に豪華。
1000円です。
観に行った人は是非買うといいです。
そして、本当に、とめどなく涙が出ました。
舞台やら映画やら小説やらの感想で、「涙が止まらなかった…」
みたいの、あんまり好きじゃないんですが、
泣いたんだから、泣いたと書いておきます。
記録的に泣いたんです。
良い舞台でした。誠実な、祈りでした。
ちょっと内容に触れつつ書きます。

開場中から、字幕で「震災に関するシーンがあります」
と表示されています。
音と光と身体表現とで、あっという間に、あの3月11日に連れ戻される思い。
張り詰めた、冷たい感覚。
観客の大部分が実際に体験しているであろうあの日を揺さぶり起こす演出。
見事でした。
そして、二部から流れる「小さき声、死者の声」が、
直球でぶつかってくる。
冒頭からもう、言葉が出ません。
そこから、震災後の福島、という事が描かれていきます。
福島テレビの報道チーム。
そこのリーダーである穂積真(二部の主人公・忠の弟。=井上裕朗)が、
第三部の軸。
福島の色々な声を取材してきたメンバーたちの報告を、真が見る、という仕組みで、
様々な声が飛び出す。
緻密な取材から編み出された台詞たちが、
役者の真摯な言葉になって、次々に空間を震わせる。
こういう演技は、覚悟がいる。
演技にはなんでも覚悟がいるだろう、というのも分かるけど、
本当にこういうのは、覚悟の度合いが違う。
実際に起きたこと、実際にあった言葉。
ドキュメンタリー性が非常に高そうな台詞たちに向き合う役者たちが、
誠実に向き合い、身を切って、痛みを感じながら台詞を吐いていく様。
特に、「津波に妻と子供が呑まれた」という荒島武(=東谷英人)の台詞、
痛みが伝染してくる。
臓物を抉られる感じ。
震災・福島を舞台にする、という事に、
作り手が、本当に真正面から出来事に向き合い、痛みを抱え、悩み、
作り上げた感がひしひし伝わってくる。
福島取材の中の言葉たちが、本当に鋭い。
鋭い言葉たちが、ただただ直球で向かって来る。
そこを、取材班、という仕組みが軸になり、
かろうじて「演劇」としての形を留めているようなバランス。
劇の形として非常にいびつで、でも、直球の演劇。
一つ一つが「特別な思い」の直球たちが、刺さる。
分断、疑惑、懸念、憎悪、抗議、
そういった様々な物が集まってくる様子が、痛々しい。
緊迫した状況での、コミュニケーションのすれ違い。
「そういう事を云いたいんじゃない」
誰もが本当は、「語られたがる言葉」を持っている、
という取材班の心。胸を打たれる。
そして、それを舞台上のベッドからじっと見つめる、
忠(第二部主人公。=山本亘)の存在が、劇を引き締める。
寄り添う妻・美弥(=都築香弥子)の台詞は、
原発推進の町長を一人の人間にし、決して「悪」とはしていなかった。
誰が悪いとかいう話じゃなく、誰でもがそうなる可能性があった。
第二部から引き続くこのメビウスな描き方が、好きだった。
犬の鳴き声、二部から観てたら泣いちゃうやつ。
二部から引き続くといえば、
「小さな声、死者の声は、すぐにかき消されてしまう」
というのがある。
三部まで観て、この三部作、一番印象に残ったのはそこだった。
根っこはそこなんだ、という感じがする。
三部ではこれは、
「まじめな報道と民主主義と相性が悪い」という側面でも話題になる。
真面目な報道では数字が取れない、もっと過激な絵を、
と主張する者、それでも真摯な報道を、主張する者。
そのぶつかり合いが、
「小さな声」か「大きな声か」という所にそのまま流れ込んでいる。
これが、本当に、根深い所なのだと思う。
真面目は、うけない。
それでも語らなければならない事がある。
この芝居自体が、「それでも」の闘いのように感じる。
こういう芝居は、必要だ。
痛みと、悼みと、祈りに満ちた二時間。
本当に、小さい声に耳を傾ける、という事を、忘れちゃならない。
今回、この芝居は、震災を、原発を、福島を扱うものだった。
観客にとって、誰もが「思い出しやすい」「感じやすい」小さな声だった。
体験した事にはアクセスがしやすい。
でも世の中には様々な問題があり、
昔の事、自分が体験したことのない事、
などなどにはなかなか「自分のこと」としてアクセスしにくい。
そういった事の中にある「小さな声」にも、
敏感でありたいなと思うのだった。
そして演劇は、そういう感度を研ぎ澄ます、一つの行動だと思います。
福島三部作・第三部『2011年:語られたがる言葉たち』
作・演出:谷賢一
日程:2019年8月8〜28日
8月8〜11日→第2部上演
8月14〜18日→第3部上演
8月23〜28日 →第1部〜第3部連続上演
料金:一般4200円/通し上演10000円
会場:東京芸術劇場シアターイースト
詳しい情報は劇団サイトへ
23日からいよいよ通し上演が始まる、
DULL-COLORED POPの福島三部作。
三部を観てきた感想など。第二部の感想はこちら。
というか、単独だと4200円、三本セットだと10000円。
お得です。
まだ間に合う?オススメですよ。
Twitterには
台詞のドキュメンタリー性の強さ。
語られたがる言葉たちをいかに語り、舞台にするか、
という作り手の誠実な苦悩、いびつな直球。
痛みと悼み。
舞台観てこんなにほろほろ涙がこぼれたのは初めて。
パンフレット豪華。買うべし。
と書きました。
まず、パンフレットが本当に豪華。写真もさる事ながら、
活字の、読み物としての充実さが本当に豪華。
1000円です。
観に行った人は是非買うといいです。
そして、本当に、とめどなく涙が出ました。
舞台やら映画やら小説やらの感想で、「涙が止まらなかった…」
みたいの、あんまり好きじゃないんですが、
泣いたんだから、泣いたと書いておきます。
記録的に泣いたんです。
良い舞台でした。誠実な、祈りでした。
ちょっと内容に触れつつ書きます。
2011年3月11日、東北全体を襲った震災は巨大津波を引き起こし、
福島原発をメルトダウンに追い込んだ。
その年末、<孝>と<忠>の弟にあたる<穂積 真>は、
地元テレビ局の報道局長として特番製作を指揮していたが、
各市町村ごとに全く異なる震災の悲鳴が舞い込み続け、現場には混乱が生じていた。
真実を伝えることがマスコミの使命か?
ならば今、伝えるべき真実とは一体何か?
被災者の数だけ存在する「真実」を前に、特番スタッフの間で意見が衝突する。
そして真は、ある重大な決断を下す……。
2年半に渡る取材の中で聞き取った数多の「語られたがる言葉たち」を紡ぎ合わせ、
震災の真実を問うシリーズ最終章。
劇団サイトより

開場中から、字幕で「震災に関するシーンがあります」
と表示されています。
音と光と身体表現とで、あっという間に、あの3月11日に連れ戻される思い。
張り詰めた、冷たい感覚。
観客の大部分が実際に体験しているであろうあの日を揺さぶり起こす演出。
見事でした。
そして、二部から流れる「小さき声、死者の声」が、
直球でぶつかってくる。
冒頭からもう、言葉が出ません。
そこから、震災後の福島、という事が描かれていきます。
福島テレビの報道チーム。
そこのリーダーである穂積真(二部の主人公・忠の弟。=井上裕朗)が、
第三部の軸。
福島の色々な声を取材してきたメンバーたちの報告を、真が見る、という仕組みで、
様々な声が飛び出す。
緻密な取材から編み出された台詞たちが、
役者の真摯な言葉になって、次々に空間を震わせる。
こういう演技は、覚悟がいる。
演技にはなんでも覚悟がいるだろう、というのも分かるけど、
本当にこういうのは、覚悟の度合いが違う。
実際に起きたこと、実際にあった言葉。
ドキュメンタリー性が非常に高そうな台詞たちに向き合う役者たちが、
誠実に向き合い、身を切って、痛みを感じながら台詞を吐いていく様。
特に、「津波に妻と子供が呑まれた」という荒島武(=東谷英人)の台詞、
痛みが伝染してくる。
臓物を抉られる感じ。
震災・福島を舞台にする、という事に、
作り手が、本当に真正面から出来事に向き合い、痛みを抱え、悩み、
作り上げた感がひしひし伝わってくる。
福島取材の中の言葉たちが、本当に鋭い。
鋭い言葉たちが、ただただ直球で向かって来る。
そこを、取材班、という仕組みが軸になり、
かろうじて「演劇」としての形を留めているようなバランス。
劇の形として非常にいびつで、でも、直球の演劇。
一つ一つが「特別な思い」の直球たちが、刺さる。
分断、疑惑、懸念、憎悪、抗議、
そういった様々な物が集まってくる様子が、痛々しい。
緊迫した状況での、コミュニケーションのすれ違い。
「そういう事を云いたいんじゃない」
誰もが本当は、「語られたがる言葉」を持っている、
という取材班の心。胸を打たれる。
そして、それを舞台上のベッドからじっと見つめる、
忠(第二部主人公。=山本亘)の存在が、劇を引き締める。
寄り添う妻・美弥(=都築香弥子)の台詞は、
原発推進の町長を一人の人間にし、決して「悪」とはしていなかった。
誰が悪いとかいう話じゃなく、誰でもがそうなる可能性があった。
第二部から引き続くこのメビウスな描き方が、好きだった。
犬の鳴き声、二部から観てたら泣いちゃうやつ。
二部から引き続くといえば、
「小さな声、死者の声は、すぐにかき消されてしまう」
というのがある。
三部まで観て、この三部作、一番印象に残ったのはそこだった。
根っこはそこなんだ、という感じがする。
三部ではこれは、
「まじめな報道と民主主義と相性が悪い」という側面でも話題になる。
真面目な報道では数字が取れない、もっと過激な絵を、
と主張する者、それでも真摯な報道を、主張する者。
そのぶつかり合いが、
「小さな声」か「大きな声か」という所にそのまま流れ込んでいる。
これが、本当に、根深い所なのだと思う。
真面目は、うけない。
それでも語らなければならない事がある。
この芝居自体が、「それでも」の闘いのように感じる。
こういう芝居は、必要だ。
痛みと、悼みと、祈りに満ちた二時間。
本当に、小さい声に耳を傾ける、という事を、忘れちゃならない。
今回、この芝居は、震災を、原発を、福島を扱うものだった。
観客にとって、誰もが「思い出しやすい」「感じやすい」小さな声だった。
体験した事にはアクセスがしやすい。
でも世の中には様々な問題があり、
昔の事、自分が体験したことのない事、
などなどにはなかなか「自分のこと」としてアクセスしにくい。
そういった事の中にある「小さな声」にも、
敏感でありたいなと思うのだった。
そして演劇は、そういう感度を研ぎ澄ます、一つの行動だと思います。
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