DULL-COLORED POP vol.20
福島三部作・第二部
『1986年:メビウスの輪』
作・演出:谷賢一
日程:2019年8月8〜28日
8月8〜11日→第2部上演
8月14〜18日→第3部上演
8月23〜28日 →第1部〜第3部連続上演
料金:一般4200円/通し上演10000円
会場:東京芸術劇場シアターイースト

詳しい情報は劇団サイトへ

_20190814_130648


昨年の夏、福島三部作の第一部『1961年:夜に昇る太陽』を観た。
福島県双葉町が原発誘致に踏み切るまでの物語を、
緻密な会話と、大胆な人形劇のブレンドで描く、
近年の劇団の質感と初期の破天荒さが絶妙にブレンドされた公演だった。

そして、つい先日、第二部を観てきた。
とても刺さる内容の、良い芝居だったので、
自分が良いなと思った物の記録として書いておこうと思います。

内容についてもちょこっと触れつつ書きます。
前情報なしで楽しみたい方はお気をつけ下さい。

エンターテイメント性に溢れ、
何も考えずに観て、笑い、楽しみ、涙を流し、すっきり劇場を出る、
というのは演劇の魅力の一つと思います。
一方この舞台は、
人があまり目を向けない、あるいは深く考える事から目を背けている事柄に、
向き合わせてくれる、
我々の現在地点を知り、
省み、考えるタイプの考えさせずにはおかない演劇。
人間を考える。
作中で
「死者の声は余りに小さく、生者の声はあまりに騒々しいから、死者の声はかきけされてしまう」
みたいな台詞があります。
賑やかな演劇と考える演劇、にも同じような構図がある気がしますが、
我々には、こういう演劇が必要なのだ、
と強く思いますね。
良い芝居でした。







第二部のあらすじは

福島第一原発が建設・稼働し、15年が経過した1985年の双葉町。
公金の不正支出が問題となり、20年以上に渡って町長を務めてきた田中が電撃辞任した。
かつて原発反対派のリーダーとして活動したために議席を失った<穂積 忠>(孝の弟)は、
政界から引退しひっそりと暮らしていたが、
ある晩、彼の下に2人の男が現れ、説得を始める。
「町長選挙に出馬してくれないか、ただし『原発賛成派』として……」。
そして1986年、チェルノブイリでは人類未曾有の原発事故が起きようとしていた。
実在した町長・岩本忠夫氏の人生に取材し、原発立地自治体の抱える苦悩と歪んだ欲望を克明に描き出すシリーズ第二弾。

劇団サイトより


というもの。

物語は、忠の愛犬・モモ(百花亜希)のモノローグから始まる。
クオリティの高い犬の人形を操るモノローグからは、なんだか郷土劇的なのどかな雰囲気が。
そして愛犬の死以降、
操り手の百花が、魂だけ抜け出るように動き出し、
以降は舞台にずっと漂い続ける。
この、ずっと出来事を見ているモモの存在が、とても良かった。
目が離せない。

劇中、飼い主の忠は、とんでもない感情の渦に飲み込まれる。
それを、一歩離れた所で見つめる目は、
様々な問題に「ほんとうにそれでいいの?」
と、疑問を投げかける形になって、
それが観客の目線としても気持ちを同化しやすい。
原発の問題を、距離を取って見る視点。

そして、愛犬である、というのがまた、良い。
飼い主の事を思ってる。
飼い主がどんな決断をしても、「それは違う!」とは言わない。
「それでほんとうにいいの?」だ。
劇全体の姿勢として、善・悪、正解・不正解、
という簡単な線引きをしない所があるように思えて、
それが、より、考える姿勢を促進させる。

二部のタイトル・メビウスの輪、
というのがまた「線引き不可」を物語っているようで、
全てが表で全てが裏。
生と死、危険と安全、建て前と本音、東京と地方、
などなど、様々な対立項は、
全て、対立するものではなく、一続きのもののような印象を受ける。
きれいはきたない、きたないはきれい。
うまいタイトルつけたもんだと思う。
表も裏もない。
おまけに出口がない。

そんな輪の中でもがき苦しむ人間の姿が描かれていて、
とてもよかった。

そして、犬のモモが、人間ではない、という事も、
大きく効果的なポイントだった。
犬は自分の力を越えた事には手を出さない。
人間は自分の制御出来ない事にも手を出す。
人間は色々な物に縛られる、ままならぬアニマル。
そんな台詞がある。
犬の視点から人間の業みたいなものを見つめ、「なぜ?」
と投げかける視点には、
「それは綺麗ごとだ!」という反論を無効化する力がある。
だって犬だもの。
どうしてそんな事をする、人間。
人間社会を客観的に見つめる素朴な視点からは、
純粋すぎるほど純粋な「なぜ?」が放たれる。

さらにモモが幽霊である、という事が重なって、
モモは死者の代表として舞台に存在する。
死者の声は余りに小さく、生者の声は余りに騒々しいから、
死者の声はいつもかき消されてしまう。
みたいな台詞があった。
物語後半、モモの「なぜ?」の声が一瞬人間に通じる場面があった。
そしてそれは瞬間的にかき消される。
それが、あまりに痛々しい。
しかし我々は、常にそうやって今まで過ごしてきているのだ、
という事を突き付けられる。

劇は、ソーントン・ワイルダーの『わが町』を思わせる台詞で結ばれる。
生きているうちは、一瞬一瞬の時間の大切さに目が向けられない、
というような事を、その輪の外にいる役が巧みに描いていく『わが町』
それとある種通ずる、宇宙的スケール感が、幕切れで広がった気がした。

劇中人物には、死者の声が届かない。
では、舞台を二時間見続けたあなたたちには届くのか、と。
もちろん、「生身の役者が死者を演じた声」に、
私たちは二時間耳を傾け、共感し続けた。
だが劇場を出て、私たちは、その小さすぎる声に耳を傾ける事が出来るのか、
という事。
気が付いた時にはもう遅い、という事柄が、世界には多々溢れている。
引き返せないメビウスの輪の中にいるとしても、
その外側、死者の声に耳を傾け、考えるということ。
そんな事を思わせる、考えさせる舞台。

そして、この、モモの視点、という構造が、抜群に効果的な仕掛けだった。



メビウスの輪、といえば、
忠を「反原発」の立場から「原発推進」の立場へと導く
吉岡要(古河耕史)の台詞や演技には、悪魔的な存在感があった。
反原発のあなただからこそ、原発の危険が理解できる。
原発の危険が理解できるあなただからこそ、原発を安全に運用することが出来る。
だからこそあなたは、原発推進の町長として、
原発の危険を訴え続ける必要がある。
そんな論理で忠を勧誘する吉岡は、ちょいちょいメガネの着脱を行う。
メガネを取った吉岡は、いっそう論を飛躍させ、圧倒的なテンションで忠に迫る。
モモのエリア、死者のエリア、と思われていた場所にも平気で踏み込んでいくその姿は、
まさに悪魔の力を放っていた。
危険と安全をメビウスの輪で繋いで原発の存在を正当化する吉岡は、
町長就任後の忠にもメビウスぶりを見せる。
チェルノブイリ事故発生後に会見を求められた忠を、
「日本の原発は安全です」
という言葉を出さざるを得なくなるまでに追い込む、えげつない論理。
ここもまた悪魔的。
そして会見場面の「日本の原発は安全です」ソングへと畳みかける演劇的ダイナミックさ。
圧巻。
さらに、息子に責められ、妻にだけ本音を漏らそうとする忠の、
行き場のなさ、追い込まれように見ごたえがあった。
同じ状況に追い込まれた時、誰がこうならないと言えるのか。

原発は危険だ、というだけでなく、
原発によって潤う双葉町経済、という要素を描いていることで、
本当に問題の深刻さが際立っている。
原発は悪魔のエネルギーだと分かっていても、
そこから逃れられない状況に追い込まれ、
悩む忠。
その悩みを見つめ、寄り添うモモ。
モモと一緒に「それでいいのか忠!?」
と考える観客。

悪者を決めて、それを退治するのは多分簡単な事で、
でも世の中、そんなに簡単に善悪の線を引けることばかりじゃない。
メビウスの輪なんですよ、と。

良い芝居でした。長らく劇団の公演観てきているけど、
ピカイチの出来だった。
三部もどうにか観に行く。
戯曲の出版も決まっているようで、買わねばという気になっています。

TMNの名曲、
映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』
のテーマでもある「BEYOND THE TIME」
を思い出しました。
「ああ メビウスの輪から抜け出せなくていくつもの罪を繰り返す…」





【演劇のリアルについて】

アフタートークで、僕が観に行った回は白井晃さんと谷賢一のトークだったのだけど、
白井さんがこの公演の演技の仕方について
「アングラ的」と話されている場面があった。
観劇中に、ダイナミックさがどことなく水族館劇場(ドアングラ劇団)を髣髴とさせるな、
と思ってた僕は、あぁ、なるほど、と思ったのだけど、
同時に谷賢一が
「僕は結構リアリズムのつもりで作ってる」
という発言をしていて、それもまた、なるほどな、と感じた。
なんか、生理的な、肉体的なリアリズムなんだろうな、と思った。
感情の高ぶり、状況の深刻さ、みたいな、
エネルギーが極めて高い地点ほど、演技のスケールが大きくなって、
吉岡さんにいたっては、履いてる革靴ぬいでほん投げたりしてた。
「いやいや、普通そんなことしないだろう」
とか
「いやいや、普通そんな大きな声で話さないだろう」
みたいな事もあるかもしれないけど、
僕は別に「普通」を観に劇場行ってる訳じゃない。
感情の大きさに応じて声や動きが大きくなる、というのは、
「普通」に閉じ込められた日常生活ではしないけど、
その方が実は、リアルなのでは、
生理的にリアルなのでは、と感じる。
生理的リアリズム、あるいは、
演劇的リアリズム、なんだな、と感じる。
劇場も大きかったし、
舞台上の出来事を、客席に届かせる事も考えると、
やっぱり、このサイズ感で観られて良かった、幸せだった、と思う。