ジャンプ・コミックス『BAKUMAN 1』
原作 大場つぐみ
漫画 小畑健
2009年1月 集英社
週刊少年ジャンプ
平成20年37・38合併号〜44号掲載分収録
絵はうまいが消極的な真城最高(サイコー)14歳と、同じクラスで自信家・漫画家志望の高木秋人(シュージン)がコンビを組んで漫画家を目指す、『DEATH NOTE』の原作・漫画コンビが放つ新作。
夢に向かう二人の姿がとにかく熱い、熱すぎる。自分もがんばろ。
話の持っていき方がほんとにうまく、最初の一話にして二人の出会いから、さらにはサイコーの意中の人・亜豆美保をからめた大きな夢がはっきりと見える。なんてシンプルかつダイナミックな展開だろうか。
そしてこの展開を、小畑健の漫画力が支えている。一話終わる毎に掲載されている大場ネームと小畑ネームを見比べると、小畑ネームの圧倒的な魅せ方のうまさに舌を巻く。
構図や画力でここまで違うものなのか。すげぇ。
芝居に置き換えて考えてみるに、原作は戯曲の作者、漫画は演出家のようなもんだろうか。
構図や画力などはミザンスやキャスティングみたいなものに繋がってくるんでしょうかね。
やはり「見せ方」ってのはあるんだなとつくづく感じるよ。
んで、はてさて役者はどうするよって話ですよ。
漫画で言えば役者はキャラクターな訳で、顔の角度とかなんやかやまで漫画家の頭脳が統制してるわけだ。
しかし漫画と芝居の決定的な違いは、役者は自分で考える事が出来るってとこなわけだ。
一人の頭脳では出てこない発想も、舞台上の無数の頭脳が影響し合う事によって発生させる事が出来る。
その場の人が人に影響を与える事で、その面白さは倍に、さらに倍にしていく事が出来る。それが芝居のいい所。
逆に言えば、それが出来なければわざわざ芝居という媒体でやる意味がないか。
ジョジョの最終巻あたりの作者の言葉で、「キャラクターが勝手に動いてこういう結末になった」みたいな事を荒木飛呂彦が書いてたけど、芝居やるからにゃ、役者は最低限そうでなくちゃならんよな。
「動く事は出来ても、考える事の出来ない俳優に用はない。」
コメント