『査察官』
作 ゴーゴリ
初演 1836年

日本では『検察官』と訳されているのがメジャー。だが、原題に検察官の意はないらしく、光文社古典新訳文庫の浦雅春訳では『査察官』と訳されている。文体が落語調に訳してあるのもこの訳の特徴。



☆『査察官』とコメディア・デラルテ☆
読んでいてまず感じるのは、キャラクターの極端なまでのディフォルメ。
戯曲の冒頭には作者の書いた人物紹介が掲げられているが、その文章からも人物たちが極端に戯画化されているのがわかる。
セリフにしてもアクションにしても、人物紹介を踏襲したような感じで、全力で体当たりしないとこの文体を生かすことは出来そうにない。
人物たちは複雑な心理描写よりも状況を切り抜けるリアクションに富んでおり、内に向かう演技スタイルよりも外へ発散する型が常に要求されているように感じる。
この点で思い出すのがイタリアの伝統的な喜劇、コメディア・デラルテだ。技の喜劇であるそれは、役者たちが縦横無尽に飛び回り、奇想天外な芸を繰り出し、痛快な笑いを展開することに長けていた。
そのためキャラクターは、その人物が果たす役割ごとに分類されている。
パンタローネやドットーレといった「父親型」、レリオなどを代表とする「色男・息子型」、アルレッキーノやトゥルファルディーノを主とする「召し使い・道化型」、他にも将軍や娘など、役割に応じたある程度の人物造形が用意されている。
『査察官』ではこの分類が極めてよく当てはまる。市長は父親型と将軍型をあわせ持つ人物だし、フレスタコフは色男型に道化型を足したもの、その召し使いオーシップはまぎれもなく道化型だ。
色男型の人物が地方に出てきて父親型の娘に恋をして結婚を申し込む、という流れもコメディア・デラルテでは珍しくない。

こう見てみると、この『査察官』は伝統的なコメディア・デラルテの型を実に良く作り上げている。嘘つき男に町の人々が痛い目にあわされる、なんていうのも極めてオーソドックスに思える。
特にペテルブルグの官吏・フレスタコフは、冒頭の人物紹介を読んでいる限り、「万事が行き当たりばったり」「ひとつことに注意を集中することができない」と、アルレッキーノが持つ特性を色濃く持っている。

こういったコメディア・デラルテばりのキャラクターが大半を占めるこの戯曲は、やはり上演においては心理的リアリズムよりも大胆なカリカチュアが必要とされるのは当然の流れであろう。
返事をするときに「イ」と「エ」の中間の音を出す、というセリフしかないギブネル医師などはギャグとしか思えない。
また、最終場の全員の動きなどは極めてコミカルで極めて象徴的かつ絵画的である。この面白さを活かせる演技スタイルはやはりエネルギーに富んだものだろう。


☆解説・あとがきから見るゴーゴリ☆
このように、技の喜劇の型を踏襲した『査察官』の著者、ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリはどのような人物だったのだろうか。訳者の解説・あとがきによれば、ゴーゴリは「外形的フォルムを描く天才的な画家」であり、「人間の感情の機微に分け入ること」が出来なかった作家だったという。物事の表象を執拗なまでに細かく描くことは出来ても、そこに人間の魂を込めるのは得意でなかったようだ。
『査察官』が、本人は全くそんなつもりはなかったのにもかかわらず痛烈な社会批判だと取られ、激しい賛否両論を浴び、びびって外国に逃げ出してしまった、という怪しいエピソードも、人間の魂を描くのが苦手だったとすれば納得がいく。「現実に自分の目に写る出来事をおもしろおかしなコメディーに仕立てあげたら、知識人には社会批判って言われるし役人からはひどいバッシングもらうし、ほんとどうしたらいいのかわからないです。」って感じだったのかもしれない。

その後、『死せる魂』でも同じように知識人から絶賛されるゴーゴリ。
彼はやがて「想像力だけによって人間の高い感情や情緒については話したり書いたりすることはできない。作家はわずかなりともそうしたものを自分の内に持っていなければならない。つまりよりよい人間にならなければならない」(「作者の告白」)と考えるようになる。
ゴーゴリは宗教心を狂信的なまでに高め、「農民は聖書以外の本が存在することすら知るべきではない」といった自分の信条を書いた『交友書簡選』を発表、これが痛烈な非難・批判を浴びる。
またもやびびったゴーゴリは狂信の神父マトヴェイから文学を放棄しろと言われ、『死せる魂』の第二部の原稿を焼き捨てる。その一二日後、ゴーゴリは死を迎える。
断食をしたり熱湯・冷水を交互に浴び、ヒルに血を吸わせるという生活を続けた凄惨な死だったという。


☆ゴーゴリを考える☆
訳者の解説・あとがきに書いてあるこのような事柄は、実は『査察官』以上に私の心をくすぐっている。

クソがつくほど真面目で、常によりよい人間を目指すために文学を志したが、その自分の文学が社会批判と取られてしまう。
今度は宗教に基づいた自分の信条を書いたら、またもや痛烈な批判を浴びる。
八方塞がりになり、狂信的なまでに修行をかさね命を落とすという一人の男の人生。

ゴーゴリは、「人間の感情の機微に分け入ること」が出来ない事に非常に強い劣等感を覚えていたのかもしれない。自分の文章をもっといいものにするにはその「魂」が不可欠で、しかしそれがどうしても描けない。それはきっと自分が魂を持っていないからだと、ひたすらよりよい生き方を模索した結果、道を間違えて後戻りもできなくなってしまう。
私にはこのゴーゴリの不器用すぎる生き方がなんとも人間くさく感じられる。
本当に魂がなかったのかもしれない。
いや、魂を文章にするのが下手くそだっただけかもしれない。
社会の評価と自分の気持ちがなんだかずれていて。
そんなに気に病むことではなかったのかもしれなかったけど、本人にとっては大問題で。
そんなゴーゴリが、なんだかちょっと好きになりました。解説とあとがき読んでよかった。
誰かゴーゴリを主人公にした芝居書かないかな。すげえやりたい。


☆『査察官』のあらすじ☆

とある田舎町にペテルブルグから査察官がお忍びでやってくるとの知らせが市長の元に入る。
日頃、不正をしたり職務怠慢三昧の要職に着いている人々は必死にその場しのぎのイメージアップ作戦を展開する。
そこへ査察官を宿屋で発見したという知らせが入り、市長は宿屋へ向かう。

一方、宿屋に泊まっているペテルブルグの官吏・フレスタコフは賭博で金を使い果たし、宿賃を払うことが出来ず立ち往生。そこへ市長が現れ、宿賃を払ってくれる。

自分が査察官と勘違いされていると気付いたフレスタコフは、ここぞとばかりに金を借りまくる。フレスタコフに媚びへつらう市の役人たち。
フレスタコフは市長の娘に恋をし、求婚する。

自分の娘が査察官の妻になると市長は大喜び。祝いの言葉を告げにきた人々の心の中にあるのは市長への妬み。
しかし肝心のフレスタコフが姿を見せない。
そこへ郵便局長が、フレスタコフが友人に宛てた、真実を書いた手紙を持ってくる。愕然とする一同。査察官なんてそもそもこんな町に来るわけがない、というムードに。
そこへ憲兵がある知らせを持って入ってくる…。



『鼻/外套/査察官』/ゴーゴリ著/浦雅春訳/2006年 光文社/光文社古典新訳文庫
に収録。