『回想の文学座』(著 北見治一 中公新書849 昭和62年)において、「芝居の文系・理系」が丁寧に紹介されている部分があった。
俳優・演出家の芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920〜1981年)が、この本の著者である北見氏(文章中の里見氏)の芝居に対して行ったコメントより。

「役の内面にひきずられていたのは甲斐君。逆に外面上のリズムにとらわれがちだったのは森田君。その点、相互の浸透作用がうまくいっていたのは、里見君だった。」

「文系と理系と」で触れた
文系=役の内面性重視のつくり方
理系=リズムなど、外面性を重視したつくり方
というわけである。

「役の内面にひきずられて」しまうというのは内面を重視するあまりに外面のコントロールがうまくいかない状態、「外面上のリズムにとらわれ」てしまう状態というのはセリフのリズムや立ち位置など、外面にとらわれすぎるあまり内面がおろそかになってしまう状態のことではないかと思われる。

文系だからと言って数学を切り捨ててはいけないし、理系だからといって国語を切り捨ててはいけないのである。

文系演技の究極態としては、いわゆる「役が乗り移った」状態
理系演技の究極態としては、「今夜のおかずのことを考えながら演技する」状態
がそれぞれ私には考えられるのだが、いかがなものだろう?